sin-neta日記

生活に役立つ様々なネタを提供しています!

電話対応品質について

いつからか電話対応品質が著しく低下した。これは電話に限らず一般的な接客品質の低下から始まったものと思われるが、昔の接客業は"顧客満足"というスローガンを意識的にもっと大事にしていた。

 

最近の電話対応はまず電話番号を探す事に苦労する。酷いところになるとメールやチャット対応のみで電話対応さえ設けていない。そして、オペレーターと話せる迄にも壁がある。電話が繋がるとまず音声ガイダンスに始まり、かなり深い階層まで用件を絞り込むが、必ずしもその先にオペレーターが居るとも限らない。その操作のなかで、ID確認の為の番号を打ち込ませる事もあるが、ここにもまた壁があり正しい情報がわからない場合はその先へ進めない。やっとオペレーターに辿り着いた先には折角絞り込まれた内容や個人情報はオペレーターに伝わっておらず、結局もう一度口頭で伝えることになる。

 

また、こちら側としては細かく絞り込まれただけに、その先に出たオペレーターにはそれなりに詳しい者が出てきている期待感があって話をし始めるものの、出てきたオペレーターは大概無知で、何を聞いても"確認"をする為に保留音が鳴り、その場で調べているかのような時間を待つことになる。問い詰めて聞いてみれば、電話を受けた者は委託された電話対応会社の人で、かけている会社の人では無い場合が多い。

更に、"確認"の末散々待たされたその先にある回答はどれも消極的で、結局解決には至らない。そればかりか、言い訳のような事情やルールの説明が上乗せされる。

いったい何を"確認"する時間だったのか説明を求めたら、その場でネット検索していた事もあるが、多くは"判る者"に確認していた"という。ならば何故その"判る者"が最初から出てこないのか。若しくは電話を受けた者自身が"判る"状態になっていないのか。言っておくと、一般消費者が質問したい内容は相手方にとっては至って基本的なもので、毎日仕事として受けている筈の対応者にとっては初めて聞くような質問では無く、場合によってはID確認も必要が無いくらいのレベルの質問をしている。

 

当然ながらそのような回答によって質問者の目的が解決されるケースは殆ど無い。諦めるかクレームに発展する。案の定、クレームに発展したときの受け答えは小慣れている感触があるが、その状況に於いても危機感を抱く訳でも無く、平然と消極的な態度は変わらず、ルールや事情を力説するスタイルを改めようともしない。むしろここでこちら側が声を荒げ、電話を切ろうとすれば、"待ってました"と言わんばかりに話は終了するため、受けている側からはそんな結果を狙っているかのような対応とさえ感じられる。

 

一方、一連の会話内容は対応品質向上の為に録音されている。電話に出てくる対応者とは全く逆のアナウンスが予め流れているのである。たとえ同じ回答内容であったとしてももう少し解決意欲のある態度や行動を示すべきと指摘すれば、お決まり文句"声を上げさせてもらいます"となる。いずれにせよ、電話対応によってこちらが満足できる結果が得られたことは無く、手間と時間を要した挙句、気分を害された経験が99%である。

 

そうなれば、何故電話対応たるものが存在するのか。問合せに対して解決意識が無く消極的ならば最初から電話番号なんて必要が無い。

 

増して、フリーダイヤルでも無い場合は20秒毎に10円がかかる為、内容の無い電話に費用がかかる話なのである。

 

このような消極的、否定的な姿勢は今の日本には至るところで感じられる。社会全体で見だ場合、消費活動にかなりのマイナスを齎している筈である。

 

現代の日本人のマインドは近隣諸国と比べても劣っており、貪欲に競争心溢れる社会は見受けられない。

 

電話対応品質にみられる現代社会の変化は将来的な警笛と捉えるべきなのである。

 

生活のお役に立てば幸いです。

 

 

 

質疑応答について

世の中、質問する側は有利である、そう感じた事はありませんか。

明日は雨ですか?

本件の納期は何ですか?

業績は如何ですか?

など、質問する内容は時と場合によって様々ですが、いつも質問者側は無責任です。たとえ気象予報士が天気を聞いても、たとえ担当者が納期を聞いても、たとえ上司が部下に業績を聞いても、自身の立場は問われる前に、目の前にある質問に対して正確な回答が出来るかどうかの方が注目されてしまいます。

 

いやいや、それはむしろあなたの立場の方が知っていなければならない筈では?と問い返すような話も、目の前にある質問の圧によって支配されてしまうのです。

 

当然ながら質問された方は当事者でもないので回答しないか、或いは知っている範囲の回答しか出来ません。または当事者ではない者を介して間接的に済ませようとする者さえ居ます。

そういう者こそ情報管理がいい加減であり、不正確、不確実な進め方をしようともします。

つまり、質問者にとって本来自身が知っておくべき内容を把握するのを怠り、無関係な立場の者を使って把握させたり情報を整理させたりすることで自身の職務を拒否している訳です。

 

一方、回答する側は直接関わっていない範囲の質問をされる為、都度即答できない質問に悩まされます。正直に"当事者ではないのでわかりません"とは伝えるものの、相手が満足する訳ではありません。なにせ、自身が把握しておくべき範疇の内容を怠った事が念頭にある訳ですから、そこから既に理不尽なのです。

 

それでも側から見れば本来質問者側が知っていなければならない内容であるかどうかがわからない限り質問者が有利なのです。

 

このような状況は新人に向けられる事が多く、特に新人にとってはその質問が自分に向けられるべき内容かどうかの判断もつかない為、気が付けば思いがけない範囲の職務内容に携わらされてしまうのです。

 

忙しくしている者の裏側には必ず楽をしている者が居ます。少なくとも新人が入る迄はそれらを他の者が行ってきた訳ですから。仮に前任が辞めて空いた穴埋めで新人が入ったのだとすれば、今度は金銭的な差がそこにはありますので、前任より安く雇われている分は能力も下がって当然な話なのです。

 

何気ない日々の質疑応答には皆さんも誘導されないように御注意下さい。

 

生活のお役に立てば幸いです。

 

 

 

ロシアによるウクライナ侵略について

ロシアによるウクライナ侵略について、これまでの歴史を辿ってみましょう。いきさつや経緯を言い出せば長い話になりますが、まずウクライナ国がNATOに加盟すると言い始めた時期にウクライナ東部の親ロシア派を救う事を目的に軍事作戦が実施されました。その後チェルノブイリ原発を占領し、侵略に伴う更なる危険を生み出しました。ウクライナ側の停戦交渉にも応じず、未だ侵略を続けています。ところが、ロシア側が想像した以上にウクライナの抵抗力があり、首都キーフ(キエフ)侵攻には失敗しており、現在は東部の侵攻が続いているようです。

 

ロシア側の最初の主張内容はあくまで"在ウクライナの親ロシア派救出"が目的だった筈が、チェルノブイリ占拠やキーフ侵攻とは辻褄が合わず、ウクライナ住民が虐殺された跡も確認されています。

 

国際社会はそんなロシアに対し人権理事会から常任理事国を外すなどの措置も行っており、各国から見放されつつあります。

 

一方、米欧諸国はウクライナに対し武器や医療具の提供を支援しており、現在は戦車の提供に向けての動きがあります。但し、ロシアの核使用まで追い込まないように、刺激をし過ぎてはならない配慮もある為、結果的には戦争にピリオドを打てずにズルズルと引き伸ばされてしまっているのです。

 

終息する可能性があるとすれば、既に行っているロシアへの経済制裁からロシア側の資金力が無くなり、戦争が終わるパターンです。

 

ロシアはこの戦争を起こした事で、国富は下がり、世界的な影響力も失いました。この先戦争が終息したとしても、ロシアに明るい未来は待っていません。

 

それどころか、今ロシアに近づいている中国に経済支配される可能性があるのではないでしょうか。

 

いずれにしても、静かな終息を期待するばかりですが。

 

 

 

ダラダラ過ごせる価値観

ダラダラ過ごしていることは良くない事でしょうか。

 

勤務時間中、勤務時間外、どちらにしてもダラダラ過ごすことのイメージは世間的に良くないでしょう。勤務時間中ならきっと"給料泥棒"などと揶揄され、勤務時間外なら"時間の無駄"と考えられますが、本当にそうでしょうか。

 

仮にここに2種類の人が居たとします。

片方は何も収入がないニート、もう片方は会社経営者だとしましょう。この2人が勤務時間中、暇にしている場合、受ける印象や意味合いが全く異なります。ニートがダラダラしている事と違って、会社経営者のダラダラは既に金儲け出来る仕組みを完成させてからダラダラしている可能性があるからです。そこに違いがあるのです。

 

つまり、ダラダラ出来る迄にはダラダラ過ごしている間も財産が更なる財を築いていたり、仕掛けた取引が動いているような状況を作り出すプロセスが必要だという事。決してただ収入も無い人が何もせずにダラダラ過ごしている人を美化した話ではないのです。

 

英語で"ダラダラした"という言葉は"アイドル"と言います。そう、日本で"アイドル"といえば人気者のイメージが強いですが、これについても共通した考え方があります。

 

アイドル歌手は歌を歌うことが仕事ですが、人気があればあるほど、一曲から生み出される利益は高く、少量のエネルギーで財を生み出すことが出来、ダラダラ過ごせる時間も長くなるものです。つまり、予め仕掛けた仕事によって財を築き、余暇時間を長く過ごせる職業といえるので、まさにアイドルというネーミングがマッチしてきます。

 

毎日働いて、働いた分だけの収入を得て生活をするのは一般的ですが、投資家のように仕掛けた財テクから収入を生み出せるものもあるのだと考えれば、人は必ずしも体力的にエネルギーを使う仕事だけが仕事のすべてでは無いのです。

 

生活のお役に立てば幸いです。

 

真面目の賛否

真面目であることは良い事なのか。これは生きる年齢によって大きく状況が異なるようです。

 

あなたが今もし学生であるならば、真面目であるに越したことはないでしょう。毎日の宿題や習い事を滞りなく行い、無駄な時間を過ごさないよう真面目にしていれば周りからの評価もあがり、自身の学力も伴う筈です。

 

一方、社会に出るとどうでしょうか。"真面目に働く"者は決して会社の邪魔になることはありませんが、出世するとも限りません。何故なら会社は利益を上げることを目的としており、経営者側から見れば次の世代を任せられる人材を出世させたいからです。

 

真面目であれば出世するか、といえばそんなことはありません。やはりそこは経営者の意思がこの先も反映されやすいかどうか、つまり感性が似ているかどうかの方を気にするのです。真面目に働く者は決して反発こそはしませんが、判断力や意思決定などの場ではほぼ無力。真面目なだけの者に決定権を与えても力を発揮する見込みが無いのです。

 

"言う事を聞く者"で、尚且つ"意見が合致する者"

が出世するのです。例え学生時代に真面目に学習をしてきた内容が会社の命運を分ける決定に迫られた選択肢と合わず、間違った決定だと思われる場合も、出世する者は反論せずついていきます。

 

つまり、社会で成功する為には正義と悪に忠実に生きる真面目な者が求められる訳ではなく、単に支配している者にとって都合の良い立ち振る舞いが出来るかどうかにかかっているのです。

 

学生時代に真面目に生き、学業だけではなく人道的にも真面目に生きてきた正義感の強い者も、会社都合で逆方向を向いていれば生き残れる見込みはないのです。

 

生活のお役に立てば幸いです。

 

主張する事について

日本人は主張をしない、海外からはそう見られてきました。裏を返せばそれは周りに合わせる心情の現れでもあり、決して日本人に意見や意思が無い訳ではありません。

 

では、意見や意思を主張するとどうなるのか。主張する人が少ないなか、主張される意見やは目立ちます。きっとその意見や意思が通り、余程の逸論でない限りは周りにも賛同され話は前に進む事になるでしょう。

そしてさらにその先、その意見や意思によって進んだ話に問題が生じた場合どうなるのでしょうか。目立った主張をした者が誰だったのかくらいは強い印象が残っている為、そこで主張者が槍玉に挙げられます。当初賛同していた周りは黙ったまま、責任の対象ではなくなっており、主張者が吊し上げられます。勿論そうならない可能性もありますが、主張をしない国の習慣のなかで周りに調和する事への意識を重んじる日本では周りに合わさず主張をした者がどこか排他的に見られます。

 

もし仮に主張者が2人現れ、討論になった場合はどうでしょうか。対立する2つの主張が衝突した場合、ディベートに慣れない日本ではどうなるのか。ディベートに慣れている国ではお互いがお互いの意見について認められる部分は受け入れながら話す為、話は時に纏まる方向に向かいますが、日本の場合は主張者そのものが"不調和な者"から始まっている為、排除するかどちらかの主張者が完全勝利するかの2択、つまり0か100なのです。

 

一方、主張している者の内容に信憑性があるのかどうかまで追求されることも少ないのでは無いでしょうか。滅多に主張されることのない日本で主張される意見や意思の取扱いに慣れていない為、主張された内容にどこまでの根拠があり、どれだけの証拠やデータを元に話されているのか気にされる事は少ないのです。主張者の意気込みに圧倒され、裏取りに気が向かないのかもしれません。

 

日本で物事を主張する事はある種容易く、ある種厳しい見られ方をするという事です。

 

生活のお役に立てば幸いです。

 

 

宗教について

世の中には様々な宗教ぐあります。キリスト教イスラム教、ヒンズー教、仏教…日本ではどれにも俗さない、所謂無信教とされる人が多いですが、海外では無信教というと"何の意見も持たない人"と捉えられることもあるくらい珍しいのです。

 

私もまた無信教ですが、私の立場からみた宗教とは自身の意見や意思の道標として、基本的な考え方の手本となるもの、のように感じます。宗教信者の方々は宗教を心の支えにしており、悩み事や問題から気持ちを安定させる為に宗教から適切な考え方を授かる事で平静を取り戻すのではないでしょうか。

 

その為、ある程度の信者を抱える有名な宗教であれば、どれも教えの内容は万人に良いと感じられるものが多いです。虐め反対、虐待反対、人助け賛成など、誰しもが理想とする内容です。ところが、宗教は互いを認め合う事だけはやり切れません。例えばここに宗教Aの信者Aと宗教Bの信者B、無信教Cの3人が居たとします。AもBもCに対し其々の宗教の良さを知って貰いたいのでアピールします。但し、AはBよりも良い、BはAよりも良い事をアピールすることでしょう。間違えても自身が属する宗教を差し置いて他宗教を勧めるような事は無いでしょう。私が無信教であり続ける理由はそこにあります。つまり、特定の宗教に属してしまう事で"色"がついてしまい、これが国際的に様々な宗教信者と接していくうえでは足枷となると考えているからです。

 

そもそも、人が何らかの宗教に属していなければならない事は無く、クリスマスを祝った1週間後に初詣をして生きられる人生のほうが有難いのです。

当然ながら無信教者が宗教を否定するつもりは全くありません。どの宗教も"教え"の内容は素晴らしく、人道的に生きられるような導きがそこにあると私は思います。どうして良いか分からない事に直面しても、宗教の思想が助けとなると思います。ただ、私の場合はこれまで自分自身の信念がつよく、何かに縋りたい状況に陥るまでに自身で考え、自分を信じ、答えを出してきました。所謂"自分教"とでもいいましょか、しっかりとした芯を持って生きてきたのです。それ故に私にはキリスト教の友人もイスラム教の友人も居ますが、何かしらの宗教に属してしまうとこうはならないと考えられます。

 

宗教は悪いものでは無いながら、ある種の友好関係が制限されるものではある為、決して自由なものでも無いのです。

 

生活のお役に立てば幸いです。